どこに行くのか分からない情報・モノ・思考
建築の世界は、とにかく広い。日々、何かを学び続ける。きっと、死ぬまで。学び、考え、書いて、描いて、見て、感じて、そして、実践する。そこでまた、何かを見出す。どこに行くのか分からない情報やモノたちを集めるページにしてみたい。論理的につくる建築だから、思考や作業の中で切り捨ててしまうものもたくさんある。しかし、本当は、その論理的思考で捨てたものこそ大切なのではないかと思うこともあるのです。
建築は土地の上に立つ。
生態系の一員である虫たちは、土地に根付く微生物や葉を食べ、排泄し、その排泄物がさらに小さな微生物や植物にとって必要な栄養となり生態系は循環を行っている。
また、生物も植物も外来種による生態系破壊を起こしているようである。
その土地にあった、虫たちにあった植物を植えなければ、虫も生態系も破壊へと向かう。
それでも建築は土地の上に立つ。
何とも言えない罪悪感とともに。
いつかは、しっぺ返しもあるであろう。
だから、少しは、認識しよう。
だから、謙虚に建築する以外、なかろう。
だから、誠実に建築する以外、なかろう。
目立つことも、なかろう。
大学生4年の時に、異様な何かがあると感じた建物。1928年に哲学者のウィトゲンシュタインによってつくられました。正確には建築家との共同設計でありますが、1928年の建物とは、思えないくらい装飾がありません。機能的な訳でもありません。現代建築のようにも見えます。
「装飾は罪悪である」という言葉で有名な建築家アドルフロース。写真は、ミヒャエル広場のロースハウス(1911年)。しかし、現代の私たちから見れば、装飾的に見えるオーダー(柱)様式。哲学者ウィトゲンシュタインの建築と全く同時代の建築家です。ここから、建築の深くて悩める日々が始まった。建築って何だろう?建築家って何だろう?・・・
モダニズムの源泉として有名なウィリアム・モリス。活躍した時期は1860~1890年。この本には、衝撃を覚えました。形のない建築、目に見えない建築っていうのがあるって事に。モリスは建築を学び建築設計事務所に勤めますが、ひとつも建築物を作っていません。
そのスタンスは、現代的なものが多いにある。巨人です。
写真は、サクラダ・ファミリアの初期のスケッチらしいです。この建築のすごいところは、今現在も、作り続けられているという事。
未完の建築、無名の人々が集まり、今なお作り続ける事自体が、何か言葉にできないものを心に訴えかけてくるように感じます。人間の本性、人々の集合した時の情熱の迫力・・・運動体の力のようなもの。
建築は、その時代と呼応するように、その姿(形式や様式など)を変えてきた。その呼応の仕方は、常にテクノロジーとともにあった。テクノロジーとの共生は、最初からあった。
テクノロジーは、250万年も前の石器時代の写真のような石器から始まり、現代に至っている。
建築は、どこに向かい、テクノロジーはどこに向かうのだろう。
人類が滅びても、植物は、滅びないんだろうって思います。
そういう生命力も、廃墟を美しいものにしている一つの理由だと思います。
この写真の風景も、最後には、植物に完全に呑み込まれてしまうのでしょうか。